2008年05月10日

藤慈の松。

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一旦気になるともうそれしか目につかなくなるという不思議がいまは「藤」。
菩提寺の藤が見事なことをすっかり失念していました。


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「藤慈の松」の所以はご覧のとおり。

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本堂の屋根より遥か高みにそびえる松に絡み付いているからなのです。日蓮上人がどうたらこうたらという話も立て札には書いてあります。


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八日は花祭りでした。昨年も書きましたが、菩提寺では旧暦で行うためにひと月遅れの開催です。年々お客さまより手伝い人のほうが多くなっているのが実情。
それは寺内を若い者が切り盛りし始めたからではなく、こういうときにやって来てお題目を捧げ、斎膳を囲もうという人々が少なくなったから。だっていちいちお寺に行かなくても毎日ごちそうを食べてる時代です。
少しのお布施でお腹をいっぱいにしなくても。ねえ。

こういったお寺さんのお祭り行事は年に数回あり、檀家が代わるがわるお勝手を手伝います。手伝い人が手伝い人のために手伝っているわけ。
どこのお寺も似たような現実を抱えています。

お釈迦様が生まれた日だから拝みましょう。

なんて教えてる家も少なくなったんだろうな。うちだって同じなんだけど。


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お寺に限らず、日常生活でも省略されて行く行事は増えていますよね。でも、時代に合わせて形を変えながら「祈る」「拝む」ということをわたしたちは続けて行くのだろうとも思います。

だって行事多すぎ!お金掛かり過ぎ!
信心とお金は必ずしも比例させなくてもいいんじゃないかと。
毎日自分の家の仏壇に水を上げてご飯を上げて手を合わせて。
こういう生活習慣のほうが、よっぽどたいせつだと思っています。
posted by おかめ at 08:08 | Comment(4) | TrackBack(1) | 今日のおかめ
この記事へのコメント
> 毎日自分の家の仏壇に水を上げてご飯を上げて手を合わせて

毎日かかさずしているわけではないのですが、炊き立てのご飯が出来た時(なんとも微妙な表現ですが)には、仏様のご飯とお水を用意して、子どもたちに「おじいちゃんとこにあげてきて」と言います。
子どもたちは、極く自然に、はーい、といってあげてきてくれます。
自然に行っていることなので、いちいち説明はしていませんが、そのうちに、自分たちなりに、いろいろ意味を見つけてくれるだろうと思っています。
Posted by おいみず〜 at 2008年05月11日 00:04

>>おいみず〜さん
この辺りでは仏壇のある家は毎朝上げるのが習慣でしょうね。
この家に来たら朝じゃなくてお昼でした。朝はお弁当がいる人がいなくなったので炊かなくなり、お昼ご飯が新しいご飯だったからなのでした。
いまはお弁当のある日は朝、休日はお昼に子どもたちにお願いしています。

遠い遠いお釈迦さまという存在よりも、つい何年か前までいっしょに暮らしたひとに上げるんだという気持ちのほうが、自然に続くと思います。
おいみず〜さんちのお子さんたちも、ちゃんと育ってますねえ。
Posted by ヤヤー at 2008年05月11日 08:40
ヤヤーさん、こんばんは。
藤慈の松、ほんとに立派ですね。

お寺や地域の行事、どんどん担い手が減ってますから、見直しも必要ですよね。
でも、「祈る」「拝む」ということはやっぱり大切ですよね。最近忘れがちになってるので、ちょっと反省してます。
Posted by オカダ at 2008年05月13日 18:13

>>オカダさん
きょうも配達途中で民家の屋根から電線にまで絡み付いている藤を見ました。あのくらいたくましくなくちゃと思っているヤヤーです。

お寺も後継者がいるところはまだよいほうで、我が家の菩提寺の和尚さんも実家のお寺の行事を掛け持ちしてます。
時代の流れとはいえ荒れ寺などTVで観るにつけ、ちょっと悲しくなります。

毎日手を合わせてはいるわたしですが、最近じゃあ空しくなって来ることも多いですよ。拝むだけではどうにもならないってこともよくわかってはいても。
Posted by ヤヤー at 2008年05月14日 00:45
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今年のGW
Excerpt: GW、4日間家に籠もりきりというのもさすがに飽きるだろうから、1日だけ出かけるこ
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Tracked: 2008-05-13 17:56